曜日部屋Webマガジン

「犠打のやうな人生」創刊!

曜日部屋管理人、サンダーバード・ヒルがつれづれなるままに発信する情報誌です。

#001 曜日について

⇒曜日とは輪廻である。管理人はこう断言します。つまり月曜が誕生、金曜夜が定年、土日が老後というわけです。土曜日が楽しいのは言うなれば年金で悠々自適に暮らしてるのと同じ状況なんですね。日曜日は晩年に相当し、だからみんな日曜日の夜をやたらと惜しむわけです。零時すぎてもまだ夜更かししたりするのは延命治療といいましょうか。しかしいずれ寝てしまうわけで、それが一週間という人生の終わりに当たります。
⇒寝てしまって終わりならばこれほど楽なことはありません。起きたら、また新しい週=人生が始まるわけです。このように、週→月→年という繰り返しがまとまったのが本当の人生です。



#002 我儘と我慢

昨今、管理人が思ふことは、我儘と我慢と言ふ二つの漢字についてである。わがまま、がまんと読むが、相反するこの二つの言葉が似たような漢字であり、我儘を管理人は幾度と無く、がまんと誤読してきた。しかしながら、人は必ずこのどちらかに属しておる。我儘な女に対して我慢する男のやうに。どちらが得かを考えてみると、圧倒的に我儘の方が得なのである。ダダをこねる・ごねる・自分のやり方(哲学)・言いたい事をはっきりと言ふ、等々様々な呼び方があるが、我儘は例え全てが通らなくても、その一部がまかり通ってしまうと言ふ事が得てして多いのだ。更に、普段我儘な人が時折、相手に同調などした際には、珍事・慶事・有難き事の如く謝意を受け、根はいと優しき人・協調性を秘めてゐる等と賞賛を浴びるのである。他方、我慢をする人は、あの人は何をやっても怒らない・忍耐強い・懷が深い等々、日頃賞賛され得るが、何の事はない、ただ我儘な人に使い易いと思われて居るのに過ぎないのである。このやうに我慢強い人が稀に我を張ったならどうなるか、結果は強情な人・頑固一徹・いつも通り黙っておけば良いものを、等の如く罵倒、軽蔑されてしまふのである。つまり、何に置いても拙者はこのやうに致したい、かような考えを持っておる、儂はこのやり方を通す、と自己主張を強く持つ事が大事なのである。しかしながら他者に対し協調性を強要する者ほど我が強いのはどういう事であろうか。自分の我儘を他者に我慢させる事で正当にしやうと思って居るに相違あるまい。故に協調性をふりかざす者は恐ろしい、かつて全人民平等を詠った社会主義国、ソビエト・中国・朝鮮・キューバ等々の指導者が皆、独裁に走ったやうに(スターリン・毛沢東・金日成・カストロ)、協調性や平等と言ふのは一人の我儘を我慢させる言い訳でしかないのである。


#003 無銭ラン

例えばやりたいことをやり続ける、というのはものすごく幸せなことなのかもしれない。一般的には。というのは多かれ少なかれ皆、不本意ながらに物事を遂行しているから。
そして、その代償としてお金をもらっている。何が言いたいかというと、世間が欲しているものと、こちらがやりたいことは基本的に相容れないということなんである。
それがわかっているからこそ、大人は乗りたくもない電車に乗って朝も早くから、夜遅くまで働く。世間が欲しているものを提供すべく働く働く働く。
それでもやりたいことをやりたいならどうするか?無償あるいは逆に金を払ってやらせてもらうことになる。供給する側が金を払う、これは経済的には全くの無価値ということになる。
そこで己の無価値さを認めたくないがゆえの、謎のプライドになる。金をもらっているのは本当の表現じゃない、とか魂を売ったとかね。



#004 渋谷は何の支部や?

渋谷はいつから人が集まるようになったのだろう。私は学生時代を渋谷で過ごした。まぁ田舎から出てきた身としては、毎日がお祭り感覚。これが都会か!テレビの中でしか見たことがなかった、109や丸井、ハチ公像などが身近に感じられるだけで幸せだった。
そして、人が集まることをことさら意識したのは2002年ワールドカップだった。私は学生生活最後の一年を謳歌していた。そしたら渋谷に、サッカーファンが国籍関係なく訪れているではないか。その時初めてなんでこんなに人が集まるんだ??と疑問に思った。そして、田舎に帰りテレビで大体人が集まるといえば渋谷である。とくにデモや、サッカーなんかだと無意味に集まるのが特集される。
渋谷というのは、なぜ人が集まる?実は、それは平安時代にまで遡る。実は、渋谷には坂が多い。というか東京全般多いのだが、渋谷だけでも道玄坂、宮益坂、スペイン坂などなどある。そして実は、そのままズバリの坂がある。勢揃坂。
この坂にはかつて源氏の兵士が後三年の役という戦いの時に集まったという由来がある。そこまで遡るのである。つまり土地の持つ名前の力が千年経っても消えていないということになる。



#005 鼓舞兵

戦国時代の武将、福島正則は自らを弓にたとえて言葉を残した。「私は弓である、戦時には重用されるが、平和になれば片付けられる」
事実、江戸時代になってすぐに、広島の大大名だった福島正則は、城を勝手に修理したとケチをつけられ信州の小大名に改易された。
たしかに、これこそ見事に片付けられてしまったわけである。平和に慣れてしまえば、たしかに弓など危険だ!とさえ思ってしまう。しかし、それがいつ崩れるかは誰だって予想はできない。あそこは弓を捨てたらしいぞ?とわかったなら襲いかかられてもおかしくない。



#006 遅れてきたルーキー

大学時代の先輩、同期、後輩にはそのままサークル活動を続けていく人もそれなりにいた。そしてそのひとたちの公演があれば時間を作り、金を払い見に行っていた。それが大学時代の終わりから20代の半ばまで。その後は仕事も忙しくなり、家庭も持ち、田舎に戻ったこともあり、公演のチラシがしばらくは届いていたが、もはや一通も来ない。
それでも時折何をしているのか気になって、名前をネットで検索すれば、どこそこで公演をやった!稽古した!とか近況が見られて、なんかつながりを感じることはできた。しかし、時は流れ30半ばの今。名前を検索しても、誰一人として出てこないのである。そして、ついでに学生の頃に見知った劇団のメンバーの年齢を見て愕然とする。42歳、41歳、39歳とかなんである。
ということは、この業界に見切りをつけて別のことをしているか、はたまたネットにすら名前が出てこないアンダーグラウンドな世界に身を投じたのか…田舎に戻ったりしたのか。田舎と違い都会は遷り変わりがはやいのはわかる。たとえば田舎ではガキの頃からずっと婆さんだったひとが今でも、婆さんとして店先に立ってたりするし。
でも都会はそんなことない。コンビニの店員なぞ一年も経てば大半入れ替わる。新陳代謝が盛んなわけで、新陳代謝についていけなくなった元若者はそこから抜ける他ないのである。
幸い別の業界にて成功している者もおり、それはそれで刺激になる。もはや大半の人間がその活動から離れている。そんな中、30半ばにして、そのころを思い出して動こうとする私。季節外れにも程がある。
なにも花は春にだけ咲くものばかりじゃない。秋にかけて咲くのも一興。そんなことを思う残暑である。



#007 中年の危機

30代半ばというのは実に難しい時期だな、と痛感する。30歳→まだ若いぞ、31歳と32歳→まだまだ若手、33歳→あれ若くない…?、34歳→もういい歳じゃん
そこからの35歳、もう逃げも隠れもできない。立派なオジサンになってる。しかし、まだ気持ちの上では若手というのが残っている。大学出て10数年経つが、そこまで老けてないじゃん。まだまだいける!って。
それが落とし穴である。実際に自分の名前の横に(35)と付けてみると、それは自ずと知れる。え、けっこうな歳じゃんと。
たとえば 安室奈美恵(19)だったのが 安室奈美恵(37)バツイチ子持ちであり、浜崎あゆみ(36)バツイチであり、宇多田ヒカル(15)は今年で宇多田ヒカル(33)バツイチ子持ちになる。、いずれこれが 浜崎あゆみ(51)になる
見た目と気持ちの持ちようはどうしても自分を主観的に若い方に若い方に誘う。しかしそれは危険だ、35歳は20代ではないのである。だから、客観的に自分を見るためにも、○山□介35歳、と常日頃から名乗るといい。歳相応の言動になるだろうから。もちろん、進んで老け込めと言っているわけじゃなく、変に若者意識はそろそろ捨てたほうがいいんじゃないか、と思うのである。



#008 バター風味のマーガリン

映画アニメ以外の教養なら、ほぼ無料で手に入る。スタンダードな小説、落語、漫才、ロックからジャズからコスタリカとかのインディーズバンドまで。ネット接続できてスマホなりあれば。
その割に世間一般で行われているのはゲームという真実。とにかく暇をつぶすことにみんな熱中しておる。思えばこれは昔からあって、たまごっちとか、古くはミニテトリス、あんな子供だましなものでさえ延々とぴこぴこやっているわけだ。
せっかく名作に触れられるよ!と言っても、近づこうとしない。めんどくさいのだろうか。いや、そうではない。要するに名作を名作として知らないし知る必要すらないと思っているからだ。
ふだんコンビニ飯とかインスタントを食ってるひとが、名店の味なんか知り得るか?そんなことはない。うまいから食ってみろ!といくらキャビアをすすめられても、キャベツ太郎のほうが美味い!と思う人のほうが多いだろう。 事実最高級ワインよりも私はコーラのほうがいい。
スマホで手軽に触れられる名作はひょっとしたらホンモノとは言い難いかもしれない。むしろホンモノのふりをしているまがい物なのかもしれない。



#009 ツメの甘さ

能ある鷹は爪を隠す。これが昔の日本の美徳だったようだ。日本人の奥ゆかしさを体現したいい言葉だと思う。でもこれが通用したのは黒船来航までだ。ことわざというのは、ある意味昔の日本人の生き様を伝えてくれる、古典。短い短い古典なんじゃねえかと思う。一方で言葉は生きており、今と昔じゃ意味合いが真逆になってるものもある。俗だがヤバいなんてのは、今じゃ肯定的なニュアンスで使われるようになっておる。あとは「煮詰まる」これも本来は十分討議して結論が出たという意味だったのに、今や、まとまらない話し合いを形容することになっている。
その都度その都度、言葉は意味合いを変える。正確に言えば使う側の人間の意識が変わってるということだ。それとともに、冒頭の能ある鷹は爪を隠す、これも美徳ではなくなってきてる。西洋化してからは、能ある鷹は爪を「出す」、になった。才能、気概はアピールしなきゃ理解されない、ということだが、これには大きく賛同する。 ところが、いまやこの「出す」=アピールする部分ばかりが独り歩きしてるな、というのが現状だ。能なし鷹のくせに爪を出す、そもそも鷹じゃないのに爪を出す、爪すらないのに爪を出す。あげく何もないのにしゃしゃり出る。
わたしは脳もないのにしゃしゃり出る勇気はない。だからとりあえず、爪は研いでおくは必要はあると思う。



#010 犠打

昨年の晩秋。私は保育園から中学までを過ごした旧友を亡くした。付き合う友達が変わったことと、クラスも違ったからほとんど会話もなかった。ましてや、高校以降など、もはや交わることもなかった。
大人になり、地元に帰ってきて、店先などでたまに見かけることはあったが声もかけるまでではなかった。ただ、あぁいるなぁ、くらいの印象。おそらく向こうもこちらのことなど気にもかけていなかったろう。では、なぜそんな人のことを書くのか?
それはやはり若くして亡くなったということが大きい。というより、それしか要素はない。急であったし、度肝を抜かれた。しかし、それ以降彼を思い出すことは多くなった。月並みな言い方をすれば、それは彼が私の心の中に生き続けている、ということになるだろう。しかし、そうじゃないと思う。やはり生きているのは本人の実感がなけりゃいかんと思う。彼は亡くなって私は生き続けている、これは紛れもない事実だ。まさに犠打。しかし確実に一死なのだ。例えどんなに思い起こされようと、当の本人は感じることができない。



#011 労働問題〜2017年新春コラム〜

2016年を振り返ってみると、アメリカ大統領選挙やら参議院議員選挙やら、オリンピックやらポケモンやらスマップ解散などなど話題に事欠かない一年だった。もちろんこれ以外にも大きなニュースはたくさんあるがそれはここでは触れない。その色々ある中で、特に俺たちにとって、身近かつ切実な問題となるのが労働問題であろう。誰でも知っている大企業で起きた過労自殺・・・。これを機に一気に世の中の動きが変わってきたように思われる。働き過ぎは良くない、サービス残業やら賃金未払い、労働基準法を無視するブラック企業は根絶すべし!と、まるでオセロでコーナーをひっくり返したかのような変わり身である。これだけ変わるということは、間違いなく人々の心の中は、どこかおかしいんじゃねえか?という疑問でいっぱいだったのではないか。
この正月を見てみても、郵便配達は1日減ったが別に何の支障もないし、百貨店では三ヶ日は休もうという動きもある。個人的にはそれでいいんじゃないかと思う。サービスが無きゃ無いなりに仕方ねえか、と、良い意味で諦めがいいのも日本人らしいと思うし、全体がそうなれば勝手にみんな足並みを揃えるようになると思う。
一方、身近なところでまったく仕事を休まない人がいるので、なぜ休まないのか?と問うたことがある。その答えは「不安だから」だった。休むことで遅れをとるのではないか?負けるのではないか?怒られるのではないか?という切迫感だったり使命感だったりするようだ。一度でも頑張って結果が出ると、無理に頑張ることが一番の方法だ!という、ある意味、単なる精神論につながってしまう。
そして、その無理に頑張ること、これで相手を出し抜く、という思考になってしまう。ライバルが10ならば、ウチは12だ!ライバルも12にしたならウチは15だ!という具合に。こうなると、もはや誰も歯止めをかけられない。これについてこられない人間はクズだ!というスパルタ様式になってしまう。だから、休みをとって生活も仕事もバランスよくいきましょう!と言ったところで、最初は足並み揃うかもしれないが、途中で必ず和を乱す奴が出てくる。さっき行った不安だから、という思考の奴ら。
結局のところ、自由競争を主とする資本主義社会では、こういう出し抜くことは悪いことではないので、ほとぼりが冷めたころには、どこの会社も同じように再ブラック化するだろう。 完全に足並み揃えさす。これは共産主義でもなきゃ無理だろう。過労やらブラックやら言ってても、社畜という言葉があるように、不幸自慢したがる輩が多いのもまた事実。



#012 プレミアム

働きすぎ、ってことなんだろうか。なんでも3時に仕事を終えて帰れる人は帰れ!という、しばらくしたら跡形もなく忘れ去られそうな取り組みがスタートしたわけだが、当の私は出張で、会議のスタート時刻は2時半という素晴らしさ。終わったのは当然5時過ぎです。まぁこんなどっかのコピーライターが考えたような現実離れした制度なんか自然淘汰されるに決まってる。
翻って私の業界は、最近ブラック顧問とか言われるようになり、土日もなく家庭も何もかも犠牲にする状態にようやく外部からメスが入るわけです。休みが全くないのはおかしいから、土日どっちかは休め!と。しかし、これを歓迎している人は、私の業界だと雑魚扱いになる。というのも、だいたいが趣味とか好んでで土日潰してる人たちなんだよね。そこへきて僕らやらなくていいならやりません、ということを言うとヤル気ないのか!腰抜け!給料泥棒!と罵られたり、まぁ直接罵られたりしなくても出世しにくくなったりするということは現実にあるわけだ。
管理職目線で考えてみれば、無償で休みなく働き学校の名声を上げてくれる人の方が良いに決まっている。プライベートも大事、ワークライフバランスを!などと抜かす輩はいらねえよ!と。結局、やりたくなくてもやらねえと生き残れない現実があるってことだ。
結論、いくら労働環境改善やらプレミアムフライデーやら、ワークライフバランスを叫んだところで、他人が休んでいる時こそ好機なり!といって進んで残業させたり、休日出勤させたり、あるいは望んでしたり、そんなことが起こりうる。隙間があれば埋めたがる、そんな民族なんだよな。隙間を作ろうとすれば罪悪感を感じたり。
とはいえ、俺は俺で出来うる限りおかしいことには声を上げていこうとは思っている。沈黙は同意(サイレントマジョリティ)とみなされちゃかないませんからな。



#013 すべらないはなし

すべらない話というのが、本当に恐い。生来の話し下手というか、フリートークがまずい。おそらくこれまでの人生において大爆笑するようなエピソードは誰だって少なくとも一つや二つあるはずなのである。
しかし、そんなとっておきのネタをなぜか面白く伝えられない。というか、盛り上がらない。なぜなのだろうか。逆にさして面白いとも言えぬ中身のない話を笑える話にしてしまう人もいる。
すると、やはり笑える人たちは明るいキャラクターの人が多いことに気づいた。とにかく声のトーンは高く、大きい声でリアクションをつけている。そして自ら笑う。これはそう、明石家さんまなのだ。
私はそういう芸風ではない、どちらかというと敬遠してきた芸風である。おまけに明るいとは言い難い。でも笑いは好きだし、こだわりたい。となると、トークには活路は見出せない。 それゆえ自ずと創造的なものに向かう。それはモノマネであったり、コントであったりするような、自然ではないもの、言うなりゃ人工物だ。だから、徹底的に作り込んでいくか、演じていくような方向しかない。明るくなければ面白くない、という図式は小学校中学校のころを思い出させる。
もともとのキャラが明るい場合、笑わなきゃいけない空気というか、笑わないのがおかしいという雰囲気になる。なんで貴方は笑わないのか?例えば明石家さんま氏の番組なりで、誰一人笑わなかったらどうだろう。そんな事は起こらないのだ、必ず誰かが笑う。笑いが一切起こらない状況。これはあってはならぬことだし、周りもこの人の話なら面白いはずだよな、という謎の期待感がある。そして知らぬ間にその空気に支配されてしまう。すべらない話というのは、それを意図しておこなうことだ。これから、とっておきのおもろい話をしますよ!これが面白いということなんですよ!と聴取を煽っておいて。



#番外編〜振り逃げ人生〜

しかし30半ばともなると、仕事では責任のあるものばかり任されるようになるな。自由きままとはわけが違う。まぁ、苦労はマイレージみたいなもんや、貯めて貯めて機が熟したら使う。
だからマイレージもないのに、好き勝手やってるのはクレジットカードで買い物しまくってるのと同じ。いずれツケが回ってきて、自己破産という名のアウトレット酒行きや。



つづきはまた